拝啓、深瀬昌久さま


僕があなたを知った時は、もうあなたは階段から転げ落ちた後でした。

はじめて見たあなたの写真は「鴉」でした。それは僕が大阪から東京に出てきたばかりの頃だったと思います。
実はまだ、「鴉」の写真はたった数枚しか見ていないのですが、そのたった数枚が僕の頭から離れることがありません。
朧げなイメージとして、けれどもやけにはっきりと「寂しさ」として僕の中に残っています。
単身で上京し毎日を孤独に暮らしていた僕自身を、あなたの写真にまんまと投影していたからでしょう。
そして、それは今でもたいして変わらないように思います。

いつか近いうち、あなたの写真を全て見ようと思います。とても楽しみです。
それではまた、お元気で。

最初の入口の興味


昨日、十文字美信さんと糸井重里さんの対談ログを読んだ。

果たして、僕の「写真を撮ろうと思って考える興味」とは何だろうか。
実際のところ、何かに興味を抱いたからシャッターを切っているはずだが、僕は僕自身の「写真を撮りたい」といった衝動が何であるのかを知らない。

むしろ、僕の興味の対象は「僕自身が何に興味を持っているのか?」であり、「僕が撮りたいと思う衝動とは何か?」である。
シャッターを切る対象は外側であるが、興味の対象は常に内側へ向いていのだ。

結局、今の僕の写真とは「目的」を探すための過程でしかない。

今日の僕は明日の僕に殺される


写真や言葉で以て「イイ感じの僕」を演じようとする僕が在る。僕はそいつの残したログがとても嫌いだ。
それは、現在のこの僕のログさえも明日の僕に消されるかもしれない、という消去願望を伴なう。
しかし、実のところ明日の僕、いや現在の僕さえも結局は「イイ感じの僕」を演じるべく、ログを消しているにすぎない。

自意識と折り合いがつく日なんてのは、果たしてやって来るんだろうか。